インタビュー

草加ミュージック・フェスティバル実行委員長 長谷部 健一さん

草創期の草中吹奏楽部に入部

上位入選を果たす

長谷部 小学校に入ると、徐々に体力もついて来てドッジボールなどで遊ぶ活発な子に育ってきました。ハーモニカを吹いたり、合唱に打ち込んだり音楽との関わりも少しずつできてきました。ある時先生に鼓笛隊の指揮者をやらないかと誘われたのですが、その先生があまり好きじゃなく、お断りしました。

小学校の時は、アナウンス部に入っており給食の時に音楽を流したり、今で言うDJっぽいこともしてました。記憶に残っているのは、小学校の3年生ぐらいの時だと思うのですが、松原団地の建設が始まっており、その建設現場にアナウンス部の子ども3人くらいと先生で取材に行ったことです。現場監督にインタビューして、そのテープを学校で放送しました。マスコミ的に発信するのが、割と好きだったんですね。

中学に入ると音楽よりスポーツがやりたくて、卓球部に入りました。当時荻村伊智朗という世界タイトルを何回もとった有名な選手がいて、その人に憧れて卓球を選びました。

頑張って練習していたのですが、先輩と衝突して1年の夏休みに退部しました。先輩は私の口のきき方が生意気だっていうんですね。私は別にそんなつもりもないから、「ふざんけんな!」という思いでやめちゃった。

その後、友達の誘いで吹奏楽部に入りました。当時は各中学に吹奏楽部ができはじめた頃で埼玉県では大宮の桜木中学というところが強かった。関東大会で優勝したり、常にコンクールでは上位でした。そのうち草中も実力をつけて県大会で桜木中学に次いで2位に入ったり、関東大会でも上位入賞しはじめました。

当時から担当していた楽器は打楽器、いろいろなパーカッションを担当していました。

野間口 春日部高校に進学されますが、勉強も一生懸命やったということですね。

長谷部 そうですね、勉強もよくしました。いい友達、先生に恵まれたと思っています。高校受験で明治大学の付属校、明治高校に合格したのですが、明治高校にいけば大学は明治に限られてしまう、ということで公立を受験して春日部高校に合格しました。

野間口 中学の頃、印象に残っているできごとなどありますか?

長谷部 柔道部の乱暴者とけんかになって、ぼこぼこにされたのを覚えています。ケンカが強いわけじゃないのに、あまり物怖じしない性格なんですね。

一人っ子でわがままに育っていたので、我を通そうとするところがあった。ある時、なにかのことで反対するやつに、自分の主張を強くぶつけたら、そいつがぼろぼろ泣き始めたんです。それで、自己主張しすぎると人を悲しませるということを悟って、その一件以来、極力自己主張しないようにした。何を食べるとか、どこに遊びに行くとか、そういうどうでもいいことは大勢に流されるようにしたんです。これだけは譲れないという時はもちろん主張しますが。

 

遊びと音楽に熱中した大学時代

野間口 春日部高校に進学されます。高校時代はどのように過ごされましたか?

長谷部 高校に入学したら、最初から吹奏楽部に入りました。体力もつけたかったので、よく運動もしましたし、応援団の連中とも仲良くつきあっていました。春日部高校は質実剛健、自由な雰囲気でしたね。文化祭で学校に泊まり込んで、よからぬこともしてましたよ。

入学すると周囲は優秀なやつばかり、勉強しないとおいていかれるという危機感が芽生えて高校1年の時は真剣に勉強しました。そしたら、実力テストで校内2番になっちゃった。先生から呼ばれて、「お前は東大に入れるから、東大を目指せ」と励まされました。

高校2年の時、旅館の表で菊寿司という寿司屋を開業して、私もそこを手伝うことになりました。そこで酒とたばこを覚えちゃった。お客さんが勧めるんですね。寿司屋を手伝って寝るのは1時、2時です。4,5時間寝て学校に行く。疲れて眠いから勉強にも身が入らない。そんな調子で成績が下がっていきました。

3年生になって受験を控えて、今の成績だと一流といわれる大学に入るのは難しい、そこにある人が推薦入学を勧めてくれて上智大学の推薦入学を申し込むことになりました。

先生からは、お前は2年から成績は落ちたが、1年の時の貯金があるから推薦できると言われました。上智の推薦を受けるのは2人いて、もう一人の私より成績のいい生徒は、どこでもいいと言われて外国語学部の推薦をもらった。私は外国語学部以外ならどこでもいいと言われて、家業の経営も考えて、経済も学ばなければいけないだろうということで経済学部経済学科の推薦を受け入学することができました。

野間口 高校時代、将来の進路をどのように考えていましたか?

長谷部 祖父母や母からは旅館を継いでくれと言われていたので、それしかないと思っていました。大学時代を通じても、一生懸命勉強していい会社に入ろうという意識も特にありませんでした。

ですから、大学に入ると毎日遊んでいたように思います。上智大学がある四谷駅を降りると学校に行く前にまず雀荘に寄る。そんな生活でした。

それでも、大学では運動がやりたくて軟式テニスの同好会に入りました。1年の終わり頃同好会の先輩の家がある成城でテニスをして、そのまま先輩の家に泊まっていこうということになりました。断りの電話を入れたら父親の体調が悪いとのことでした。

父は婿養子で、旅館の仕事とは関係なく浅草で写真修正関係の職人をしていました。酒が好きで、ちょっと酒におぼれていたようなところもありました。婿養子だし肩身も狭くてストレスもあったのでしょう。それまでも体調を崩して入院することもあったので、いつものことだろうと思っていたら、その晩父は49歳で亡くなってしまいました。

翌朝、家に電話をかけて、そのことを知り、慌てて成城から草加まで帰ったのですが、先輩たちも心配して、一緒についてきてくれました。その一件でなんだかテニス同好会にいづらくなってそのまま同好会はやめてしまいました。

テニスの同好会と平行して軽音楽同好会にも入っていてジャズドラムを本格的にやるようになっていました。大学に通いながら家業を手伝っていて2年、3年も相変わらず遊んでいました。4年を控えて、勉強にも身が入らないしこのまま留年してもいいかなと思ったのですが、推薦入学で合格しているわけで、留年したら春日部高校の上智への推薦枠がなくなるといわれて、そこから頑張って勉強しました。1年間で42単位ぐらいまとめて取った。

最後の試験が残り2つくらい残っている時、今度は祖父が風呂場で倒れてそのまま息を引き取りました。試験日と葬儀の日が重なって、これはいよいよ留年だと覚悟して教授に話したら、そういうことなら、追試をするからということで、無事単位をすべてとって卒業することができました。

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