インタビュー

草加ミュージック・フェスティバル実行委員長 長谷部 健一さん

音楽を中心とした「文化」で草加を盛り上げたい。

長谷部さんメイン

草加ミュージック・フェスティバル実行委員長

長谷部 健一さん

長谷部健一さんは、草加市住吉の生まれ。現在は生家の跡地一角に立てられた税理士法人「L&Cアシスト」を代表社員税理士として経営されています。そのかたわら、2013年で8回目を迎えた草加ミュージック・フェスティバルの実行委員長、地元商店会の会長、商工会議所副会頭など、さまざまなまちづくり、地域振興に関する要職をお務めです。そして、もうひとつの顔は「ミュージシャン」。自らドラムを叩き、ジャズクラブのオーナーでもあります。そんな多彩な顔を持つ長谷部さんに、ご自身のこと、草加の未来について話を伺いました。

 

不正を見逃す大人が許せず

幼稚園を「中退」

野間口 お生まれは草加ですね。

長谷部 生まれも育ちも草加です。現在、会社がある敷地(住吉)で祖父母の代から「菊水」という旅館を営んでいました。

戦争末期、祖父母と一人娘だった母の3人が東京都墨田区から草加に疎開したのが長谷部家と草加の出会いです。草加にきた当初はなかなか地元に受け入れてもらえずに「東京もん」などといわれていたようです。

母、そして私は一人っ子ですが、父は戦争から復員してきた11人兄弟のひとりで、長谷部家に婿養子に入りました。

長谷部家は元々秩父の出です。分家をしてから祖父で19代目、私で21代目。鎌倉時代から続いていて、秩父にある惚円寺(そうえんじ)というお寺が長谷部家の菩提寺。今でもお墓はそこにあります。先祖は秩父でそれなりの活躍があったようで、廃れていた惚円寺の中興に貢献したと言われています。

祖父は秩父で郡役場に就職しましたが、上司とそりが合わずに、ある時上司を殴って役場を辞め、そのまま出奔しました。満州、東京、横浜などを転々として最後は草加に落ち着いたというわけです。元々発明家だったようで、ペダルを踏むと水が出る水道が昔ありましたが、あれは祖父の発明らしいです。

野間口 幼い頃、どういうお子さんだったのでしょう?

長谷部 ルミ幼稚園から草加小、草加中と進学しましたが、幼稚園時代に印象に残っていることがあります。みんなブランコに乗りたいので、順番を待って乗るんです。ブランコに乗りながら1から10まで数えて、その後「おまけのおまけの汽車ぽっぽ、ぽーと鳴ったら代わりましょう」といって次の子に代わる。ところが、わんぱくな子がいて、数を数え終わってもいつまでも乗っている。先生も注意するんだけど、どこか黙認しているところがある。こういう不正がまかり通る世界に、私はにいたく失望してしまって、それ以来幼稚園にいかなくなったんです。だから、「私は幼稚園中退」ってよくいうんです。

(※編集部注:るみ幼稚園の記録によると、長谷部さんは卒園になっているそうです)

野間口 幼いながら、正義感が強かったんですね。

長谷部 不正は許せないといった気持ちは強かったと思います。あと、子どもの頃は体が弱かった。小川医院という病院があって、そこの先生にしょっちゅうお世話になっていましが、ある時体調が悪いので診てもらったら栄養失調という診断でした。それぐらい食が細くて好き嫌いが激しかったんです。母親も体が弱くて、祖母に育ててもらったようなものなのですが、栄養失調だという診断に、みっともないからちゃんと食べてくれと祖母には懇願されました。

野間口 旅館を営業されていたということですが、今では埼玉屋さんなど、草加で営業している旅館は数少ないと思いますが、以前は結構旅館はあったのですか?

長谷部 草加駅周辺には新常磐旅館、藤婦屋旅館などいくつかありましたね。工業団地(編集部注:1963年草加工業団地、1967年草加八潮工業団地完成)ができてしばらくは、そこで働く職人さんが寝泊まりしたり、同伴のお客様がいたり、それなりの需要はありました。

 

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△長谷部さんの生家跡地は集合住宅、飲食店などが軒を連ねている。                                          Sugar Hillもこの一角にある。旅館の屋号「菊水」の名前から通称「菊水小路」

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