インタビュー

前衆議院議員 細川律夫氏

今の日本の教育には、

グローバル社会に通用する人材教育が必要

前衆議院議員の細川律夫さんに、教育、子育てのテーマで話を伺いました。

聞き手 野間口司郎

 

中学時代、ソフトボールで県大会準優勝

この時の「自信」が人生に影響を与える

野間口 中学、高校の時、どのような子どもだったでしょうか?

細川 育ったのは、高知県の山の中です。兄弟は姉と妹がいますが、農家の長男坊として、幼い頃から家の手伝いをしていました。中学になると一人前の働き手として、休みの日や学校から帰ると本格的に手伝い始めました。いろんなものをつくっていましたが、養蚕をしていたので、桑の葉を蚕に与えたりするのが、主な仕事でした。

高知県は私が学生の頃は、男子ソフトボールが盛んで、私も中学校ではソフトボールに熱中していました。ポジションはピッチャー。県大会で決勝まで進みました。惜しくも優勝は逃しましたが、この時の経験は自信という意味で、後々、私の人生に大きな影響を与えました。

学校は狭く、グランドも1塁ベースくらいまでしかとれなかった。そういう環境でも一生懸命練習すれば、県大会で決勝までいけるんだというのは、貴重な教訓でした。

高校は生まれ育った村を離れ、高知市の高校に進学しました。そこでもソフトボールは続けましたが、県大会の決勝に進出するといった戦績は上げられませんでした。当時から将来は法律を勉強して弁護士になりたいと思っていました。

私の基本的な信条は、「弱い者を助けたい」ということです。私の子ども時代は、高校に進学するのは珍しく、中学校の同級生の多くが集団就職で関西方面に出て行きました。就職した友だちがたまに帰省して話を聞くと都会での苦労がよく分かりました。彼等は身一つで出て行った弱い立場です。地方から都会に身一つで出て、苦労している人たちを守りたい、そういう思いも弁護士を目指した動機のひとつでした。弁護士なら、法律を武器に、自分一人でも社会の不正や悪と闘えると思っていました。

野間口 お父様は、どのような人で、印象に残っている思い出や言葉などありますか?

細川 父は真面目一徹、遊びとか一切しなかった。特に何かをいわれた記憶はありません。怒られたことも一度もない。特に褒められたこともない。寡黙で仕事一筋の男。唯一、酒を飲んだ時だけは、しゃべっていました。

家は農家でそれほど裕福ではありませんでしたが、村を出て高知市内の高校に進学させてもらった。オヤジが頑張ったのだと思います。

野間口 お母様は、どのような人でしたか?

細川 優しいおふくろでした。母親に怒れた記憶もありません。特に怒られるようなこともしませんでしたが。中学の先生が私を高知市内の高校に進学させるよう親を説得して、進学させてもらったわけですが、今考えるとそれが、両親にとって幸せかどうかは分からないですね。親元を離れて結局は帰ることなく、どんどん遠くにいってしまった。今でも母親は一人で田舎に住んでいます。

野間口 ご両親のことで、特に印象に残っている思い出はありますか?

細川 司法試験に失敗して、もう一年やらせてくれと親に頼んだ時に、励ましの手紙を母親からもらいました。それをよく覚えています。

野間口 ご自身の子育てで、特に大事にしたことは何でしょう?

野間口 私が仕事で家にいる時間があまりなく、子育ては女房に任せっきりだったということもありますが、私も自分の親と同様、子どもに関して何もいわなかった。怒ったことも一度もありません。強いていえば、「不正は憎め」とか「人と上辺だけの付き合いはするな」といったことはいってきましたが、基本的に子どもには干渉しませんでした。

二人いる子どものうち、長男は弁護士、次男は越谷市の市議会議員をやっていましたが、事情があって県議選に出馬してそこで落選、今は浪人の身です。

野間口 二人ともお父さんの背中を追いかけていたということですね。子どもが自分と同じ職業を選ぶというのは、父親としてはうれしいのではないですか?

細川 まあ、その辺はよく分からないのですが、二人の子どもとは、今でも何でも話せる間柄です。電話一本かければ、いつでも酒には付き合いますし。

野間口 子育てや教育で苦労したということは、ありませんか?

細川 特にないですね。本人の自主性を尊重していました。何かを強制することもありませんでした。

1 2 3
イメージ画像

サイト内検索

Loading